享保9年(1724)5月、大坂尼ケ崎町1丁目(現、大阪市中央区今橋4丁目)に設立された漢学塾。道明寺屋吉左衛門(どうみょうじやきちざえもん。富永芳春[とみながほうしゅん])ら、学問を好んだ大坂の5人の商人が出資し、三宅石庵(みやけせきあん)を学主に招き、庶民教育のために設立され、享保11年(1726)には官許の学問所となった。大坂学問所、あるいは単に学校などとも呼ばれる。当初は、朱子学、あるいはやはり儒教の一派である伊藤仁斎(いとうじんさい)や荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古学の折衷的な学問を教えたが、教授・五井蘭洲(ごいらんしゅう)は『非物篇(ひぶつへん)』を著して、荻生徂徠による徂徠学を批判し、懐徳堂の学問を朱子学中心とした。老中・松平定信の諮問に答え、幕政改革案を述べた『草茅危言(そうぼうきげん)』で有名な中井竹山(なかいちくざん)とその弟・中井履軒(なかいりけん)は、全盛期の懐徳堂で教授した。門人(門弟)からは、儒教・仏教・神道批判を展開し、近代になって高く評価される富永仲基(とみながなかもと)や仙台藩の財政再建に功があった山片蟠桃(やまがたばんとう)らが出た。蟠桃の著書『夢の代(しろ)』は、地動説に基づく宇宙論や市場経済の分析などを展開している。
漢学(かんがく)
儒教をはじめとする、中国からの伝統的学問の日本での呼称。
朱子学(しゅしがく)
中国の南宋(なんそう。1127〜1279)の時代に朱熹(しゅき。尊称は朱子[しゅし])によって完成された儒教の新学派で、中国では朱子学が主流になった。日本における儒学の基礎でもある。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。