現滋賀県・近江の地侍をルーツとする忍者たちの総称。徳川家康は、今川氏から独立する際、甲賀の地侍を招いて奇襲を行うなど、甲賀者とは深い関係をもっていた。天正12年(1584)、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでも、甲賀者が働いた。秀吉はこれを憎み、紀州の太田城攻めの後、甲賀者の知行を奪って追放した。このため、甲賀者は、家康に接近した。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前夜、石田三成が伏見城を攻めたとき、甲賀者が駆けつけ、70余人が討ち死にした。家康はその者たちの子孫を召し抱え、山岡景友(やまおかかげとも)を頭とし、与力10騎、同心100人の甲賀組を編成した。甲賀組は、江戸城大手門・下乗門・中の門の大手三門の警備のほか、城内の警備にもあたった。現在も皇居東御苑に残る百人詰所は、警備にあたった甲賀組の詰所である。甲賀組の屋敷地ははっきりしないが、当初は伊賀組と同様、麹町一番町の南の甲賀坂あたりにあり、その後、青山(現・新宿区霞ヶ丘町辺り)に移ったと推測されている。
忍者(にんじゃ)
諜報活動や謀略活動を行うために極めた忍術を使う者で、忍び(しのび)などともいう。伊賀流、甲賀流という流派に見られるように、鈴鹿山系に生まれた山岳奇襲部隊がルーツ。
知行(ちぎょう)
幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する制度。
与力(よりき)
町奉行所に勤務する役人で、年番方をはじめとしてさまざまな掛(かかり)に分かれ、それぞれに同心が配属された。
同心(どうしん)
町奉行所にて、さまざまな掛(かかり)に分かれた与力のもとに配属される役人。町奉行所には100〜120人ほどが勤務した。