8代将軍・吉宗が、出身である紀州藩(和歌山)から連れてきた、鉄砲の弾薬詰めを行う10石の薬込役(くすりごめやく)や5石の馬の口取りなどの下級武士で、江戸城の庭の警備にあたることから御庭番と称された。当初17家あり、江戸時代後期には21家に増えた。幕府の身分の上では「御広敷伊賀者(おひろしきいがもの)」とされるが、実質的には伊賀組とは別の組織で、御庭番家筋(おにわばんいえすじ)として幕末まで存続した。本丸の天守台下にある庭の警備は、御庭番が泊まり番で務め、江戸城の庭へ植木職人が入ったり、大奥の畳替えなどで畳職人が入ったりするときには、御庭番が監視した。そのほか、将軍側近である御側御用取次の命で「内密御用」も務めた。この任務は、老中以下幕府役人の素行調査、諸藩の動静や江戸市中の探索などで、まさに幕府隠密としての活動である。しかし、まったく陰の存在にとどまったわけではなく、寛政(1789~1801)のころには、だんだん取り立てられて、御目見得以上(おめみえいじょう。将軍に謁見できる旗本)にあがる家もあり、700石高の納戸頭(なんどがしら)や500石高の勘定吟味役に昇進する者も出、幕末には遠国奉行や勘定奉行になった者もいた。ただし、取り立てがあっても、御庭番家筋を離れることはなかったという。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
大奥(おおおく)
江戸城内にあった将軍の正室や側室の住居。
御側御用取次(おそばごようとりつぎ)
将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
遠国奉行(おんごくぶぎょう)
幕府が直轄する地方要地に在勤する諸奉行の一般的な呼称。長崎奉行、京都町奉行、大坂町奉行、佐渡奉行など。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)
勘定所の長官で、幕府財政を担当するとともに、幕府直轄領の民政、徴税、司法にもあたり、定員は4人。