御庭番が将軍直属の諜報組織であるのに対し、老中が使う諜報組織は、目付とその配下の徒目付および小人目付である。徒目付は、小人目付や徒の者、表火の番などから昇進する御目見得以下(おめみえいか)では最高の役職とされ、100俵5人扶持(組頭は200俵高)で60人ほどいた。城内の宿直、大名登城の際の玄関の取り締まり、評定所、京都からの勅使が宿泊する伝奏屋敷、城内の紅葉山の警備にもあたった。そのほか、遠国出役(でやく。遠国に出張して勤める任務)として諸藩の探索なども担当した。小人目付は、15俵1人扶持で50人ほど、中間(ちゅうげん)などの武士身分でない者の中から命じられる役である。徒目付の配下として、勘定所や町奉行所、普請場(土木工事の現場)などへの出役、牢屋敷の見回り、変死人の立ち会いなどを行った。また、目付の遠国出役に供するほか、単独で町人などに変装して遠国御用を命じられることもあった。これは身分が低いため、武士の面子(めんつ)にこだわらず自由に活動ができたためである。
御庭番(おにわばん)
8代将軍・吉宗が、出身である紀州藩(紀伊)から連れてきた下級武士。江戸城の庭の警備にあたることから御庭番と称された。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
目付(めつけ)
幕臣の監察にあたる役職で、江戸城の目付部屋に詰め、老中から幕政の諮問にあずかり、その指示のもと幕臣の身辺の調査も行った。
御目見得以下(おめみえいか)
1万石未満の将軍の直臣で、将軍に拝謁することができない格式であり、御家人とも呼ばれた。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
中間(ちゅうげん)
個々の武士が召し抱えた家来の中で、武士の身分ではない者。外出などの際に、武士に同行し、鑓持ち、鋏箱(はさみばこ)持ちなどをした。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
町奉行所(まちぶぎょうしょ)
現代の東京都庁と警視庁に、下級裁判所の機能まで持たせたような役所で、北町奉行所と南町奉行所の2カ所であるが、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までは中町奉行所もあった。
牢屋敷(ろうやしき)
江戸時代の拘置所や留置場というべき施設で、刑事事件の未決囚を収監する場所。町奉行所直属の牢屋敷は小伝馬町に置かれた。