現在の東京都千代田区永田町にある山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)と同外神田にある神田明神の祭礼をいう。隔年に行われる両神社の例大祭は、将軍が見ることになっていたから、天下祭りと称したのである。山王日枝神社では将軍も氏子であったから、6月15日の例大祭の行列は、江戸時代初期のころから江戸城中を通行した。一方、神田明神の祭礼は、5代将軍・綱吉のときから江戸城に入った。6代将軍・家宣のときには、江戸城吹上(ふきあげ)に設けられた物見の前まで屋台をねり込ませ、将軍が大奥女中と見物した。8代将軍・吉宗はこれを停止したが、その後復活。祭礼の費用は各町の町入用(ちょうにゅうよう)から支出されたが、これは地主や町屋敷を所有する家持(いえもち)が積み立てるものだったから、町の住人に費用の負担はなかった。文化・文政期(1804~30)には、御雇祭(おやといまつり)といって、大奥女中が出金して、町に出し物を出すよう命じた祭りも登場。これはその町の栄誉であったから、かなりの赤字を出して務めた。江戸の庶民は天下祭りを楽しみにし、中には妻や娘を吉原に売って、祭りに没入する者もあった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
大奥女中(おおおくじょちゅう)
大奥に勤務する女中で、御年寄をはじめとして多くの役職があった。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。