川や堀に沿った陸地をいう。河岸地、河岸端(かしばた)も同様である。江戸湾に入ってきた船の荷物は、艀(はしけ)に積み替えられ、川や堀を通ってそれぞれの町に送り届けられた。そのため、河岸は荷物の積み上げ場や荷物置き場、貯蔵庫として利用された。また、町で出るごみも、河岸に運ばれ、船に積まれて永代島(現・江東区佐賀町付近)に捨てられた。河岸は本来、明地(あきち。空き地)にすべきものだったので、江戸時代前期には河岸に荷物を高積みしたり、建物を建てたり、雪隠(せっちん)や射的場などを置いたりすることを禁じる法令がしばしば出ている。しかし、河岸を荷物の保管所として利用することは商人たちにとってどうしても必要であったから、次第に一定の制限内で許されることになった。18世紀に入ると、河岸の一部を蔵地として、蔵を建てることが許された。河岸は、江戸時代前期には物寂しく危険な場所だったが、盛り場である両国広小路の河岸には茶屋が並ぶようになり、材木置き場になった河岸には夜鷹が入り込んで、客をとったりした。河岸に小船をつなぎ、そこで客をとる私娼もいた。
艀(はしけ)
波止場から沖に停泊する本船へ、貨物や人員、客などを運ぶ小さな船。
雪隠(せっちん)
便所のことで、厠(かわや)ともいった。江戸時代前期までは排泄物をそのまま流す構造で、河岸端(かしばた)や下水の上に小屋を作って雪隠とすることが多かったが、糞尿が肥料となり、農民が買い取ったため、壺などにためる構造となっていった。
盛り場(さかりば)
娯楽施設や商店、飲食店などが集まり、大勢の人でにぎわう地域。多くの人口を抱える江戸では、木挽町(東銀座)や浅草寺の寺社門前などをはじめ、さまざまな見世(店)や芝居小屋などが並んでいた。
夜鷹(よたか)
道端で客を誘う私娼。宝暦期(1751〜1764)には、鮫ケ橋(さめがはし。現・東京都新宿区)、本所(ほんじょ。現・東京都墨田区)、浅草堂前(あさくさどうまえ。現・東京都台東区)などに出没し、その数は4000人に及んだとされている。後には、両国が夜鷹の名所になった。