鉄砲や大砲を用いる武術。天文12年(1543)、種子島へ来航したポルトガル人によって鉄砲と火薬が伝えられ、戦術の変化をもたらし、天下統一の動きを促進した。しかし、個人的な戦闘を中心とする日本において、鉄砲が集団戦で中心的な役割を果たすのは、天正3年(1575)の「長篠の合戦(ながしののかっせん)」ぐらいで、砲術は射撃技術を中心とする秘伝として発達した。初期の砲術家である稲富一夢(いなとみいちむ)らは、神技に近い技術を誇った。鉄砲の口径や銃身長、火薬の調合などがそれぞれの名人によって工夫され、流派が立てられた。寛永年代(1624~44)には、オランダ人によって大砲術も伝えられた。江戸時代後期には、対外的危機の中で多くの和流砲術流派が起こるが、長崎の高島秋帆(たかしましゅうはん)は西洋砲術を研究し、幕府にその採用を提案、天保12年(1841)には徳丸ケ原(現・東京都板橋区)で西洋式大砲の実射演習を行って評価を得た。秋帆から砲術を伝授された伊豆韮山(にらやま)代官・江川英龍(えがわひでたつ)は、松代藩士・佐久間象山(さくましょうざん)ら全国各地から集まった武士に砲術を伝授し、大砲鋳造のための反射炉(金属の精錬・溶融に用いる炉)も建設した。西洋砲術は諸藩に広まり、洋式銃が多数輸入され、歩兵を中心とする洋式銃隊が組織されるようになった。こうして、和流砲術はまったく影響力を失うこととなった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。