諸大名が隔年に領地から将軍の城下町である江戸に行く制度。参勤交代の原形は、天下一統を果たした豊臣秀吉の時代に求められる。秀吉は、服属した戦国大名に妻子を上洛させ、京都や伏見に屋敷を構えてたびたび上洛することを命じた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで家康が覇権を握ると、江戸に参勤する大名が現れた。慶長8年(1603)、家康の将軍宣下後、次第に多くの大名が江戸に参勤するようになり、順次江戸に屋敷も与えられ、元和元年(1615)の大坂の陣後、参勤交代制が実質的に確立した。寛永12年(1635)、3代将軍・家光は、武家諸法度に東西大名の隔年4月参勤を明記し、参勤交代が幕府の最も重要な大名統制制度として完成した。参勤交代は、大名の経済力を削減するために行われたともされるが、それは目的ではなく、あくまで諸大名の服属儀礼であることを本質とする。全国の大名が、大勢の行列を仕立てて街道を往来するこの制度によって、地方経済が振興され、日本全国の均質化が進んだ。また、大名の序列化が進み、それにともなう儀礼も整備される一方、江戸に滞在する大名同士の交流も盛んになった。文久2年(1862)閏(うるう)8月22日、幕府は、諸大名の参勤を3年に1度とし、大名妻子の帰国を自由とした。これ以後、参勤交代制は有名無実化し、慶応3年(1867)、15代将軍・慶喜が大政奉還したことによって終焉を迎えた。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。