本来、武士の給与は、下級の者を除いて、領地から年貢などを徴収する知行として与えられていた。武士は、年貢を徴収して生活するほか、戦いのときには知行地から農民を陣夫として調達したから、少なくとも騎馬で参陣する中級以上の武士には知行地が必要であった。ところが、戦乱の時代が去り、貨幣経済の浸透によって大名財政が困窮してくると、個々の藩士の地方知行を止め、藩で領地を一括管理し、藩士には知行に相当する禄米(ろくまい)を支給するようになる。これが俸禄知行である。譜代大名では、もともと俸禄知行の藩士が多く、外様大名においても多くが17世紀後半に俸禄知行に移行した。儒学の一派である古文辞学の荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、こうした状態を「鉢植えの武士」と呼んで批判した。実際、藩庫から給与を支給される武士は、近代のサラリーマンに近い存在となった。しかし、俸禄は職務に対する給与として与えられるものではなく、あくまで代々安堵される家禄であり、その家に仕える武士としての身分に対して与えられるものだった。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
年貢(ねんぐ)
農民が領主に上納する負担で、近代の税金にあたる。土地の潜在的な収穫量である石高(こくだか)に対してかかり、物成(ものなり)、取箇(とりか)ともいう。
知行(ちぎょう)
幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する制度。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
地方知行(じかたちぎょう)
武士の給与のあり方で、与えられた領地の百姓から年貢をとる方式。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。石高(こくだか)は、筆頭の井伊家が30万石だが、多くは10万石以下だった。
外様大名(とざまだいみょう)
関ヶ原の戦いの後に、徳川家に仕えるようになった1万石以上の直臣。
儒学(じゅがく)
儒教、すなわち孔子の思想に基づく信仰や教えの体系。
俸禄(ほうろく)
藩が領地を管理して、家臣へ米を支給する制度。支給される米を俸禄米という。