側用人とは、5代将軍・徳川綱吉の時代に創設された、将軍と老中の取り次ぎをする役職である。館林藩主時代の綱吉の家老・牧野成貞(まきのなりさだ)が最初の側用人で、以後十人以上が置かれた。有名な人物は500石ほどから成り上がった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)である。吉保は、老中をしのぐ権力をもち、15万石に加増され、少将に任じられて、大老格にまでなった。綱吉は、傍流から入った将軍であったため、徳川宗家の政治機関である老中の人事を尊重せざるを得ず、自らの意思を伝達するために吉保を重用したのである。6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時代も、間部詮房(まなべあきふさ)が側用人として重用されたため、この3代の時代を側用人政治という。8代将軍・吉宗は、譜代大名尊重の立場から側用人を廃したが、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)を置いて老中との取次役とした。9代将軍・家重は、言語不明瞭であったため側用人を復活し、家重の言葉を理解できた大岡忠光(おおおかただみつ)を任じた。10代将軍・家治の時代には、田沼意次(たぬまおきつぐ)が側用人となり、のちには老中も兼ねて権力をふるった。これ以後、側用人は幕府官僚組織に組み込まれた役職となり、老中へ昇進する一段階となった。
側用人(そばようにん)
将軍側近の最高職で、将軍を補佐し、将軍と老中とを取り次ぐ役。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
大老(たいろう)
江戸幕府の政務を統括する最高職で、非常置で置かれるときも1人。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。石高(こくだか)は、筆頭の井伊家が30万石だが、多くは10万石以下だった。
御側御用取次(おそばごようとりつぎ)
将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。