江戸時代に3回行われた、幕府政治の改革。8代将軍・吉宗が行った享保の改革(きょうほうのかいかく。享保元~延享2年[1716~45])、11代将軍・家斉の時代、老中首座・松平定信が行った寛政の改革(かんせいのかいかく。天明7~寛政5年[1787~93])、12代将軍・家慶の時代、老中首座・水野忠邦が行った天保の改革(てんぽうのかいかく。天保12~14年[1841~43])を三大改革と呼ぶ。いずれも将軍の名で改革を宣言するもので、かつては将軍主導の政治として高く評価された。享保の改革は、幕府財政の窮乏を立て直すため、倹約を命じ、人材を登用するとともに、定免制(じょうめんせい)の採用、上米の制(あげまいのせい)、足高の制(たしだかのせい)などが行われた。これによって幕府財政は一時好転した。寛政の改革、天保の改革も、吉宗の享保の改革にならうという立場から行われた。寛政の改革では、札差(ふださし)、すなわち旗本や御家人の蔵米を販売代行する商人からの借金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)を出し、農村では、非常時のための食料などを貯蔵しておく社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)の設置、江戸では、飢饉(ききん)や災害への対策をはじめ貧民救済などのために積み立てを行う七分積金の制(しちぶつみきんのせい)を命じて飢饉や災害に備えた。また、近代の官吏登用試験に類似する学問吟味も創設した。天保の改革では、株仲間の解散、物価引き下げ、人返しなどを命じた。さらに幕府権力強化のため、江戸・大坂周辺の領地を幕領に編入する上知令(あげちれい)を出したが、大名や旗本からの反対が強く、挫折した。改革の政策基調が緊縮財政をとることによって幕府財政の立て直しをはかるものであるため、第二次世界大戦後の歴史学では、保守的な対策として低い評価しか与えられなかった。近年では、幕府権力の強化をめざす側面に注目して、再評価する説が有力になっている。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
定免制(じょうめんせい)
過去数年間の収穫をもとに年貢の率を定める制度。
上米の制(あげまいのせい)
諸大名は参勤交代の制度によって、隔年ごとに1年間、江戸に滞在しなければならなかったが、それを半年に縮め、代わりに石高1万石について100石の米を上納させる制度。
足高の制(たしだかのせい)
幕府では役職ごとに禄高(ろくだか)の基準があったため、低い禄高の者が高い役職に就任したときに、不足分の石高を在職期間のみ補う制度。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
御家人(ごけにん)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以下(将軍に拝謁できない)の者をいい、約1万6000人いた。
七分金積立の制(しちぶきんつみたてのせい)
飢饉や災害への備えや貧民救済などを目的とする町会所(まちかいしょ)を設け、その運営や維持のために積み立て金をさせる制度。各町に対し、天明5年(1785)〜寛政元年(89)までの町費(自治予算)の平均と、節減できた町費との差額の70%を積み立てに回させた。
株仲間(かぶなかま)
幕府に認可された商工業者の独占的な組織。新規参入の管理など、強制力をもつ同業者団体で、幕府はこの特権を認める代わりに、上納金を納めさせた。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。