江戸時代の医者は漢方医だったが、18世紀半ばには、長崎出島のオランダ商館の医師によって伝えられた医学を学んだ蘭方医が出現した。安永3年(1774)に前野良沢(まえのりょうたく)・杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって翻訳された『解体新書(ターヘル・アナトミア 原著名はAnatomische Tabellen)』は、西洋医学の紹介書として大きな刺激となった。以後、津山藩医・宇田川玄随(うだがわげんずい)がオランダの内科書を翻訳し『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』として出版するなど、多くの西洋医学書が翻訳され、蘭方医も次第に増えていった。漢方医が薬を処方する内科的治療であるのに対し、蘭方医は器具を使った外科的治療を行うことに特色があった。文政6年(1823)、来日したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、長崎郊外の鳴滝(なるたき)に鳴滝塾を開き、西洋の臨床医学教育を施した。蘭学者・緒方洪庵(おがたこうあん)は、大坂に適塾(てきじゅく)を開き、3000人を超える門弟にオランダ語や医学を教えた。天保年間(1830~44)にはメスやピンセットや鋏(はさみ)などさまざまな外科道具が売り出されており、幕末には、農村にも蘭方医がいることが珍しくなかった。
漢方医(かんぽうい)
中国医学の影響下で発達した、日本独自の医学。
出島(でじま : でしま)
江戸時代、長崎に設けられた面積4000坪弱の人口の島で、外国人居留地とされた。出島に入ることができる日本人は、長崎奉行所の役人のほか、通詞や特定の町人、遊女に限られた。
オランダ商館(おらんだしょうかん)
オランダ東インド会社の日本支店。慶長14年(1609)に長崎の平戸に設けられたが、寛永18年(1641)に長崎の出島に移転させられた。
蘭学(らんがく)
オランダ語の書物を読み、訳すことによって西洋の学術を研究した学問。
適塾(てきじゅく)
蘭方医・緒方洪庵(おがたこうあん)が、大坂に開いた蘭学塾。洪庵の号が適々斎(てきてきさい)だったので、適々斎塾、適々塾ともいう。天保9年(1838)、大坂瓦町に開塾し、同14年には過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)に移転した。