安土桃山時代(1568~1603)に明国から撚鍼法(ねんしんほう)が伝えられ、吉田流、入江流、御薗流(みそのりゅう)などの流派が立った。日本で考案された、鍼管を使って指先で軽くたたきながら細い鍼を刺していく管鍼法(かんしんほう)に対して、撚鍼法は鍼管を使わずに、鍼を直接肌に置いて静かに刺していくもの。3代将軍・家光のとき、山川城管(やまかわじょうかん)という検校(けんぎょう、盲人の位)が家光の治療にあたって恩遇されており、盲人が鍼医となっていることが知られる。入江流の杉山和一(すぎやまわいち)は、幼時に失明しており、従来の打鍼や撚鍼よりも、盲人にとって施術の容易な管鍼の療法で大成した。また杉山は、4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉の治療にあたり、元禄5年(1692)には盲人の統轄役となる惣検校職(そうけんぎょうしょく)となり、その政治力で多くの弟子を諸藩の侍医に送り込み、盲人鍼医の勢力を広げていった。また、このころからの都市の発展とともに、町人にも鍼医の需要があり、町医者にも鍼医の看板を掲げる者が少なくなかった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。