幕府によって開設された、西洋医学の教育機関。前身は、安政5年(1858)、神田お玉ケ池に作られた種痘所(しゅとうしょ)、すなわち当時流行していた天然痘の治療や予防を目的として、江戸の蘭方医たちが設立した医療集会所である。万延元年(1860)、幕府直轄とされ、種痘のほか蘭方医学の教育も行うようになった。文久元年(1861)には、西洋医学所と改称され、種痘・解剖・教育の三科をもつ医学教育機関となり、のちに、単に医学所と改められた。文久2年(1862)には、大坂から蘭学の私塾・適塾(てきじゅく)の緒方洪庵(おがたこうあん)が招かれて頭取となり、諸規則の整備を行った。洪庵の死後は、のちに土方歳三とともに新撰組が幕を閉じた函館の五稜郭(ごりょうかく)に立て籠もることになる松本良順(まつもとりょうじゅん)が後任となった。維新後は新政府に引き渡され、のちの東京大学医学部に発展した。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
蘭方医(らんぽうい)
18世紀半ばに長崎出島のオランダ商館の医師によって伝えられた西洋医学を学んだ医者。
適塾(てきじゅく)
蘭方医・緒方洪庵(おがたこうあん)が、大坂に開いた蘭学塾。洪庵の号が適々斎(てきてきさい)だったので、適々斎塾、適々塾ともいう。天保9年(1838)、大坂瓦町に開塾し、同14年には過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)に移転した。