江戸・小石川(現・文京区)にあった、幕府による貧民を対象とする病院。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』、および黒沢明監督の映画『赤ひげ』の舞台にもなった。8代将軍・吉宗が設置した目安箱へ投函された投書がきっかけとなり、享保7年(1722)に設立された。投書したのは、麹町の借家に住む小川笙船(おがわしょうせん)という町医者で、施薬院(せやくいん)、すなわち貧しい病人に治療や投薬を施す施設の設置を求めていた。これを読んだ吉宗は、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)・有馬氏倫(ありまうじのり)に調査を命じ、小石川御薬園の中から1000坪の敷地を与えて設置させた。名称は、吉宗により養生所とされた。養生所で施療を受けることができるのは、貧しいために薬が服用できない者、独り身のため看病人がいない者などで、収容定員は40人だった。小川は初代肝煎(きもいり。病院長にあたる)となり、養生所付き医師には、幕府から2人の小普請(こぶしん)医師が任命され、近所に住む町医者も協力することになっていた。当初は薬園の薬草を試すための施設だといううわさがあり、あまり患者は来なかったが、次第に施療を望む者が増え、養生所に入るために長期間待たされることになった。幕府は、収容定員を大幅に増やして150人とし、予算も843両余とした。当初は内科だけだったが、外科と眼科も設置され、正規の医師のほか幕医の子弟を見習医師として施療の補助とした。このほか、住み込みで働く看病中間(かんびょうちゅうげん)、女看病人など、現在の看護師にあたる者や食事を作る賄中間(まかないちゅうげん)が置かれた。19世紀ごろの養生所は、入所時に看病中間から礼銭などを要求されたため、金銭的に余裕のある者でないと入所できなくなっていた。また、薬の費用は医師の役料から出すことになっていたため、医師が投薬を渋るという弊害もあった。江戸の三大改革の一つとして知られる天保の改革(天保12~14年[1841~43])のときには、医師を幕医からではなく、優れた町医者から登用する改革も実施された。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
御側御用取次(おそばごようとりつぎ)
将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。
小普請(こぶしん)
無役の旗本や御家人で、小普請奉行の配下ではなく、役高3000石の小普請組支配の配下になり、小普請組支配組頭が通達や上申を取り次ぐ。無役であり、勤務の必要はなかったが、上納金の義務があった。
三大改革(さんだいかいかく)
江戸時代に3回行われた、幕府の改革。8代将軍・吉宗が行った享保の改革(きょうほうのかいかく。享保元年[1716]〜延享2年[45])、11代将軍・家斉の時代、老中首座・松平定信が行った寛政の改革(かんせいのかいかく。天明7年[1787]〜寛政5年[1793])、12代将軍・家慶の時代、老中首座・水野忠邦が行った天保の改革(てんぽうのかいかく。天保12年[1841]〜14年[43])をさす。