按摩は医療の一法として医書に取り上げられることもあるが、多くは保養のための副次的な医療行為である。また、遊廓など、遊興の場でも按摩の需要があったことが知られている。按摩業は比較的熟練を要しないため、下層の細民、特に当時下層に置かれていた盲人の生業(なりわい)として定着した。彼らは裏店(うらだな)の長屋や按摩の溜り宿に住み、杖(つえ)を突き、笛を吹きながら町々を流して歩いた。店を構え、客の求めに応じて出張する、羽振りのいい按摩もいた。揉み料は、19世紀ごろ江戸で上下(かみしも)48文、上方ではその半額程度だった。1日5人の客があったとして、収入は200文にもならないから、収入は不熟練の日傭人足(ひようにんそく)の3分の2ほどであり、生活は苦しかった。また、盲人ではない困窮者が按摩業に参入してくることもあり、さらに生活を圧迫した。
裏店(うらだな)
町屋敷は、間口が3間半(約6m)〜10間(約18m)ほどで、奥行きが20間(約36m)ほどの細長い構造になっており、通りに面した家を表店という半面、表店と表店の間にある木戸を入って、路地を行った奥にある何棟かの長屋を裏店といった。