江戸時代中期から後期にかけて、江戸で刊行された娯楽文学。黄色の表紙をかけたことから黄表紙と呼ばれる。安永4年(1775)に刊行された恋川春町(こいかわはるまち)の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』がその最初とされる。2冊10丁(20ページ)の短いものだが、田舎から江戸に出てきた青年が富豪の養子となり、吉原や深川などで遊ぶが、目が覚めて栄花のむなしさをさとって村に帰るという内容である。遊里(遊廓)に題材をとったことが画期的で、世間に歓迎された。当時の世相に題材をとり、諷刺(ふうし)や滑稽(こっけい)な要素を取り入れて流行し、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ、実は秋田藩留守居役・平沢常富[ひらさわつねまさ])、山東京伝(さんとうきょうでん)などが活躍した。文人にして狂歌(きょうか)などでも知られる大田南畝(おおたなんぽ)は黄表紙の評論を行った。しかし、天明7年(1787)刊行の、寛政の改革を諷刺した喜三二の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし)』などが幕府の弾圧を受けたことで、心学教化の作風に変わっていく。文化(1804~18)のころには敵討物(かたきうちもの)が全盛となり、5丁(10ページ)1冊の2冊物や3冊物では足りなくなり、2~3冊をまとめて1冊とし、前編・後編に分けて刊行する合巻(ごうかん)に移っていく。作者としては、式亭三馬(しきていさんば)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)らがいる。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
留守居役(るすいやく)
諸藩の中級藩士で、江戸藩邸に常駐し、幕府や他藩との交渉を担当した。
狂歌(きょうか)
五・七・五・七・七の音に風刺や皮肉、パロディを盛り込んだ、機知に富む短歌の一種。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。