江戸城に登城した際、大名が控える部屋のこと。御三家は松の大廊下に沿った部屋の上の間、前田家(加賀藩)、越前家(福井藩主・松平家)は下の間に席を与えられた。11代将軍・家斉の岳父(がくふ。妻の父)となった島津重豪(しまづしげひで)もこの部屋に席を与えられるなど、特に将軍のはからいで、この部屋に席を与えられる大名もいた。外様大名や家門大名(親藩)のうち朝廷の官位で四位に叙せられた大名は大広間、五位の外様大名は柳間(やなぎのま)に席を与えられた。溜間(たまりのま)は、譜代大名では井伊家、親藩では会津藩・松平家、高松・松平家が定席で、ほかに親藩や譜代大名の重鎮が選ばれて溜間詰(たまりのまづめ)となった。譜代大名のうち、三河時代から徳川家に仕えた重臣の子孫は帝鑑間(ていかんのま)を控え席とした。この席の大名は、将軍にとっては先祖の功臣である。幕府成立以後、能力や功績によって取り立てられた譜代大名は、雁間(かりのま)を控え席にした。この席の大名は「詰衆(つめしゅう)」と呼ばれ、交代で毎日登城してこの部屋に詰めた。老中以下の幕府諸役職も、この席の大名が任じられることが多かった。ただし、帝鑑間の大名と雁間の大名は固定的なものではなく、席を変更されることもあった。2万石以下の無城の大名は菊間縁頬(きくのまえんがわ)に詰め、「詰衆並(つめしゅうなみ)」と呼ばれた。ちなみに、大番頭や書院番頭ら幕府直属軍の司令官は菊間に、町奉行、勘定奉行ら幕府中枢の役人は芙蓉間(ふようのま)に席を与えられた。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
御三家(ごさんけ)
徳川家康の9男・義直を祖とする尾張家、10男・頼宣の紀伊家、11男・頼房の水戸家のこと。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
外様大名(とざまだいみょう)
関ヶ原の戦いの後に、徳川家に仕えるようになった1万石以上の直臣。
親藩(しんぱん)
徳川家の一門大名の総称だが、江戸時代には格式に応じて、御三家、御三卿、家門、連枝などに分かれた。
朝廷(ちょうてい)
天皇が政治を行った政府。数々の儀式や祭祀も行った。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。石高(こくだか)は、筆頭の井伊家が30万石だが、多くは10万石以下だった。
溜間詰(たまりのまづめ)
江戸城黒書院に付属する溜間に詰める幕政顧問の立場にある大名。彦根藩・井伊家、会津藩・松平家、高松藩・松平家の三家は定席とされた。このほか、忍藩・松平家、姫路藩・酒井家、松山藩・松平家、桑名藩・松平家などが折りに触れて溜間詰となるほか、老中経験者も溜間詰を命じられることがあった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
町奉行(まちぶぎょう)
町奉行所の長官で、寺社地と武家地を除く江戸の行政担当者。警察業務や司法業務を日常的に遂行し、消防や災害救助も行った。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)
勘定所の長官で、幕府財政を担当するとともに、幕府直轄領の民政、徴税、司法にもあたり、定員は4人。