大奥の取り締まり、関所女手形の発行、江戸城諸門の通行証の発行を管轄する幕府の役職。江戸幕府初期は、大名から提出された証人(人質)の管理、金銀収納などを任務とする重職であったが、寛文5年(1665)、証人制の廃止により証人管理の役はなくなり、金銀収納の任務も元禄2年(1689)に勘定頭(かんじょうがしら)に移行した。そのため、旗本の名誉職的な意味が強くなり、万石以上城主格(大名で城主に準ずる者)の格式を認められ、享保8年(1723)に制定された役高は5000石高だった。定員は4~5人。前職は大目付が多く、町奉行や勘定奉行、あるいは御三卿家老(「卿」は異体字)などから、老年になって任命される。諸藩の留守居(江戸留守居役)とは呼び方が同じだが、まったく別の役職である。大奥の取り締まりを任務とするので、御台様(御台所)御用人、御広敷番の頭などの大奥役人は留守居の指揮下にあった。なお、同じく閑職である西の丸留守居は2000石高で、同じ役高の町奉行や勘定奉行からの左遷先となることも多かった。二の丸留守居は、ふだんは使われていない二の丸の管理を行う役で、700石高であったから、留守居や西の丸留守居とはまったく性格の違う役職といえる。
大奥(おおおく)
江戸城内にあった将軍の正室や側室の住居。
関所女手形(せきしょおんなてがた)
江戸に預けられた大名の妻子が、国元へと逃亡することを防ぐために設けられた、女性だけに課せられた厳重な手形。出発地や目的という通常の手形に記載される内容だけでなく、身分や年齢、容姿など個人を特定する要素までが記載されていた。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
大目付(おおめつけ)
幕臣の監察にあたる役職を目付といい、大目付は大名の監察にあたる役職で、町奉行や勘定奉行を勤めた旗本が任じられた。
町奉行(まちぶぎょう)
町奉行所の長官で、寺社地と武家地を除く江戸の行政担当者。警察業務や司法業務を日常的に遂行し、消防や災害救助も行った。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)
勘定所の長官で、幕府財政を担当するとともに、幕府直轄領の民政、徴税、司法にもあたり、定員は4人。
御三卿(ごさんきょう)
徳川吉宗、家重の子によって創設された三家。将軍家の家族の位置付けで、それぞれ賄領10万石と、江戸城の田安門・一橋門・清水門のそばに屋敷を与えられた。(注:「卿」は異体字)
家老(かろう)
藩士の最高位。現代でいえば、代表権をもつ藩政の責任者で、「重役」ともいわれる。大藩では家格の高い家が世襲した。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
江戸留守居役(えどるすいやく)
諸藩の渉外担当役で、幕藩関係を円滑にする役割を果たした。江戸時代の大名は参勤交代を行っており、江戸を留守にする際に江戸に常駐し、幕府からの指示を仰ぐ家臣が必要だった。
御台所(みだいどころ)
将軍の正室で、公家の最高の家柄である五摂家か世襲親王家から娶(めと)ったが、例外もあった。
御広敷番の頭(おひろしきばんのかしら)
御広敷番頭(おひろしきばんがしら)ともいう。大奥に通じ、将軍のみが通ることのできる御錠口(おじょうぐち)を警護する御広敷添番や伊賀者を統括する役職。