勘定奉行支配下の職名で、享保9年(1724)に新設された。郡代や代官の指示で、幕領の諸河川の堤川除(つつみかわよけ)や用水普請(ようすいぶしん)、街道や橋の管理や普請に従事した。また、長崎にも派遣されて貿易の監査なども行っている。普請とは建築・土木工事を意味し、職務の性格から、町人や農民などから取り立てられる者も多かった。学問などを積んで幕臣に登用される場合、最初は普請役に編入される者が散見される。たとえば、蝦夷地(えぞち 北海道)探検を行った農民出身の最上徳内(もがみとくない)は、本多利明(ほんだとしあき)の塾で天文学などを学び、最初は竿取り役として蝦夷地に渡ったが、のち普請役に取り立てられている。アメリカに漂流したのち、日本に帰還したジョン万次郎こと中浜万次郎も、幕臣になったときの身分は普請役である。勘定奉行所は人員を雇う経費が豊富にあり、全国の幕領を管轄する役所であったため、民間人の登用場所として便宜的に活用されていたようである。なお、普請奉行支配下の同心は、「御普請方(おふしんかた)」という。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)
勘定所の長官で、幕府財政を担当するとともに、幕府直轄領の民政、徴税、司法にもあたり、定員は4人。
郡代(ぐんだい)
支配領域が広大である、関東・美濃・飛騨・西国筋の4カ所の代官についての呼び名。
代官(だいかん)
藩が領地を管理して家臣へ米を支給する俸禄知行制において、その領地を一括して管理する郡奉行の配下で、年貢収納の実務を行う役人。
天文学(てんもんがく)
天体のさまざまな現象を観測し、研究する学問であるが、暦(こよみ)の作成の必要から発達した。日本の暦のもととなった中国の暦は、月齢を基本とする太陰太陽暦で、太陽暦とは1年の長さが違うため、2〜3年に一度閏月(うるうづき)を設ける必要があった。
同心(どうしん)
町奉行所にて、さまざまな掛(かかり)に分かれた与力のもとに配属される役人。町奉行所には100〜120人ほどが勤務した。