宴席や酒席に呼ばれ、踊りや三味線などの芸を演じて座に興を添える者。最初は男女ともにいたが、男芸者は幇間(たいこもち)などと呼ばれ、やがて女性に限るようになった。江戸では17世紀末、武家屋敷などに呼ばれて踊りをおどる踊子(おどりこ)が出現して人気を博した。この踊子が芸者の起源とされることもある。吉原に芸者が出現したのは18世紀中ごろであり、次第に吉原や寺社門前など江戸の繁華な町に芸者が置かれるようになったらしい。吉原以外では最大の岡場所だった深川の芸者は、「辰巳芸者(たつみげいしゃ)」などと呼ばれて有名だが、江戸の町々にも町芸者がいた。多くが裏店(うらだな)に住み、呼ばれれば、2人1組で茶屋などの座敷へ出た。芸者の売春は許されていなかったが、深川芸者や町芸者は売春する者も多かったという。売春する芸者は「転び芸者」「枕芸者」などと蔑称され、私娼として取り締まりを受けることもあった。天保13年(1842)、老中・水野忠邦の天保の改革(てんぽうのかいかく。天保12~14年)で深川の岡場所は取り払いを命じられて壊滅し、深川芸者の大半は深川通いの船付きであった柳橋に移り、「柳橋芸者(やなぎばしげいしゃ)」と呼ばれた。新橋は江戸時代ではさほどの芸者屋町ではなかったが、明治になり、新政府の高官が通うようになって繁栄した。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
岡場所(おかばしょ)
江戸の私娼地で、江戸では吉原以外での売春は非公認であったが、実際には半公認で各所にあった。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。