道端で客を誘う私娼をいう。「夜鷹」の呼称が出現するのは、宝暦(1751~1764)以降だが、それ以前にも同様の存在は「辻君(つじぎみ)」などと呼ばれて存在した。享保3年(1718)には、堀に浮かべた船で売春する「船饅頭(ふなまんじゅう)」と呼ばれた私娼もいた。宝暦期には、鮫ケ橋(さめがはし。現・東京都新宿区)、本所(ほんじょ。現・東京都墨田区)、浅草堂前(あさくさどうまえ。現・東京都台東区)などに出没し、その数は4000人に及んだとされている。のちには、両国が夜鷹の名所になった。「坐夜鷹(すわりよたか)」といって、外出せず、長屋で客をとる夜鷹もいた。夜鷹は私娼であるから、摘発されれば捕らえられ、吉原に送られるが、生活に困った女性が個人的に行うものであるから、黙認されていた。弘化2年(1845)には、両国のあたりをはじめ、各所に夜鷹が出て、「御免の夜鷹」と言い触らされるほど繁盛しており、夜鷹の番付までもが出版されている。夜鷹が公許された事実はないが、幕府に取り締まりの意図はなかったようである。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。