江戸幕府の洋学研究教育機関。前身は幕府天文方付属の翻訳機関である蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)で、安政3年(1856)、軍事力強化のため老中・阿部正弘(あべまさひろ)によって、江戸の九段坂下竹本図書頭屋敷(くだんざかしたたけもとずしょのかみやしき)に設立された。幕臣やその子弟の入学を許し、翌年正式に開校。のち、諸藩士の入校も許した。主な任務は、砲術、造船、航海、兵学、器械学などの軍事科学や技術書の翻訳、幕臣らへの洋学教育である。また、外交文書の翻訳、翻訳書の出版の検閲、輸入洋書の取り締まりも行った。初代頭取は古賀増(まさる)で、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(すぎたせいけい。「卿」は異体字)らが教授陣となった。生徒数は100人ほどで、授業科目は、最初は蘭学だけだったが、英語・ドイツ語・フランス語の教育も始められ、化学・器械・物産・画学・数学・西洋印刷術などの科目も加わっていった。いわば大学の原形であり、文久3年(1863)には一ツ橋門外の護持院原(ごじいんがはら)の広大な建物に移転し、開成所という名称が新たに採用された。開成所の教官には、オランダに留学して法学や経済学を学んだ西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)らもいる。徳川幕府が倒れたのち、新政府に移管され、東京大学に発展していった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
洋学(ようがく)
江戸時代後期に日本の学者が学んだ西洋の学問。基本はオランダ語の文献を読むことによって西洋の学問を学ぶ蘭学だが、西洋諸国との通商が始まる幕末には洋学という用語が定着した。
天文方(てんもんかた)
幕府が寺社奉行(のち若年寄)の管轄下に設けた、天文や編暦を担う官職。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
砲術(ほうじゅつ)
鉄砲や大砲を用いる武術で、天文12年(1543)、種子島へ来航したポルトガル人によって鉄砲と(西洋の)火薬が伝えられて以降発達した戦術。
兵学(へいがく)
軍勢を動かす方法を考察する学問をいい、江戸時代にて、戦いがなくなってから体系化されたもの。
蘭学(らんがく)
オランダ語の書物を読み、訳すことによって西洋の学術を研究した学問。