幕府が長崎に設けた海軍の教育機関。オランダ商館長・ドンケル・クルチウス(Donker Curtius)の意見によって、安政2年(1855)、長崎西奉行所に設けられ、幕臣の監視を務める長崎目付・永井尚志(ながいなおむね)が責任者となった。この年入港したオランダ船「スンビン号」(“Soembing” 「スームビング号」とも呼ばれ、のち「観光丸」と命名された)がオランダ政府から幕府に献納され、実習船となり、教授には乗組員の士官らがあたった。生徒には、矢田堀鴻(やだぼりこう)、勝義邦(かつよしくに。勝海舟[かつかいしゅう])、中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)ら40余人が人選され、伝習生として長崎に派遣された。第二期生には、函館戦争を指揮した榎本武揚(えのもとたけあき)がいる。同4年、永井は、オランダ人教官の反対を押し切り、生徒105人を率いて観光丸で江戸に帰り、江戸に軍艦教授所を設けた。同年には「ヤーパン号」(“Japan” 「ヤパン号」「ヤッパン号」などとも呼ばれ、のちに「咸臨丸[かんりんまる]」と命名された)が入港し、新教官・ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ(Willem Johan Cornelis, Ridder Huijssen van Kattendijke)らが着任した。永井の後任には、長崎目付・木村喜毅(きむらよしたけ)が就いた。カッテンディーケは『長崎伝習所の日々』という貴重な記録を残している。しかし、同6年、幕府は、伝習の中止と教官の帰国を長崎奉行に命じ、海軍伝習所はわずか4年たらずで廃止された。廃止の原因は明らかではないが、前年に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)が巨費を要する伝習事業を嫌ったためと見られている。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
オランダ商館(おらんだしょうかん)
オランダ東インド会社の日本支店。慶長14年(1609)に長崎の平戸に設けられたが、寛永18年(1641)に長崎の出島に移転させられた。
目付(めつけ)
幕臣の監察にあたる役職で、江戸城の目付部屋に詰め、老中から幕政の諮問にあずかり、その指示のもと幕臣の身辺の調査も行った。
大老(たいろう)
江戸幕府の政務を統括する最高職で、非常置で置かれるときも1人。