室町時代(1336~1573)後期、徒歩で従軍する軽輩(けいはい)の武器であった槍(やり)が、騎馬の武士の武器として使われるようになった。馬上で敵と討ち合うには、太刀よりも槍の方が適していたからであろう。これにつれて、持ち主の好みにより、素槍のほかに、片鎌槍や十文字槍が考案され、室町時代末期から安土桃山時代(1568~1603)にかけて槍術の流派が成立した。素槍では、無辺流(むへんりゅう)、竹内流、伊岐流(いきりゅう)、十文字槍では宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)、片鎌槍では戸田流、内海流などがある。宝蔵院流を開いたのは奈良の興福寺の僧侶・宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)で、吉川英治の『宮本武蔵』に登場して有名。伊岐流は、伊岐真利(いきさねとし)が柳生宗厳(やぎゅうむねよし)から新陰流(しんかげりゅう)兵法を学び、特に槍術に工夫を加えて創始した流派。江戸時代に入っても流派の創出は続き、代表的な流派は慶長(1596~1615)から寛文・延宝(1661~1681)ごろまでに成立している。ちなみに、「槍」は足軽などが持つもので、騎馬の武士の持料(もちりょう)は「鑓」と書くのが一般的である。藩主の持つ持鑓(もちやり)は、参勤交代の行列では熊毛や鳥の羽などで作られた鑓鞘(やりさや)がその家の象徴となった。江戸時代中期に入ると、新たな流派の創出はなくなり、諸藩で採用される流派も固定的なものとなった。このころの槍術の稽古(けいこ)は、主にそれぞれの流派の型を学ぶものであったが、文化・文政(1804~1830)ごろになると、試合稽古が重視されるようになる。最初は同門や藩限りでの試合であったが、次第に他流試合が行われ、藩を超えた試合も行われるようになった。幕末には、長州藩、土佐藩などの武道場で、諸流合同の試合が行われるようになり、幕府の講武所(こうぶしょ。武芸の訓練所)もそれを採用した。このため試合技術は大幅に発達したが、それとともにそれぞれの流派の特徴は失われていった。明治以後、槍術は急速に衰退していき、現在存続しているのはわずか数派にすぎない。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
兵法(ひょうほう)
軍勢を動かす方法を考察する学問、あるいは剣を中心とした武術。
足軽(あしがる)
最下位に置かれた武士で、戦時においては、弓の者や鉄砲の者により、弓や鉄砲の部隊を編成した。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
参勤交代(さんきんこうたい)
諸大名を隔年に、その領地から将軍の城下町である江戸に来させる制度。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。