国定忠治が大戸(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破って磔刑(たっけい)になったように、関所破りは重罪であった。しかし、関所を通行するためには関所手形などが必要だったので、これを持たない者が関所を越えようとすると、関所破りをするしかない。ただ、江戸時代を通じて関所破りで処刑された者はほとんどない。それは、関所の周辺の村人らが、抜け道を知っており、若干の礼金で案内してくれたからである。たとえば箱根関所は、小田原城主が預かっていた。江戸に向かう者は、すでに新居(現・静岡県湖西市)の関所で改められているということで簡単に通行できたが、江戸から出る者は厳重に取り調べられた。特に、女性には厳しかったが、清河八郎(きよかわはちろう)の『西遊草(さいゆうそう)』によると、関所の手前の集落が密かに関所破りを手引きしていたという。また、近くの宿屋の主人は関所の役人と親しく、彼に心付けを渡すとほとんど問題なく通れたという。
関所(せきしょ)
交通の要所や国の境に設けられ、通行者や貨物の検査、監視を行った施設。二十数名の役人が常駐し、手形などを検査して通行の許可を判定したほか、関銭と呼ばれる通行料を徴収した。
箱根関所(はこねせきしょ)
東海道を通行して江戸に入るときの最大の関所。譜代大名の小田原藩が管理した。江戸から出る女性に関しては、幕府留守居が発行する「関所女手形(御留守居証文)」がないと通行できなかった。