芭蕉忌は、俳聖とも呼ばれる江戸期の俳人、松尾芭蕉の命日のことで、陰暦10月12日、現在の11月下旬。芭蕉は、それまでの、西行、世阿弥、雪舟、利休といった日本文化の巨人たちが残した「美学」の集大成者でもあった。だからこそ、俳句という世界で最も短い詩の表現者として、誰よりも日本人の心に残る人名となり、また世界中の文学愛好者からの尊敬をも集めているのである。
正保元(1644)年、徳川三代将軍家光の時代に伊賀上野に生まれた芭蕉は、十代の終わりごろに俳諧(はいかい)に出会う。ちなみに、俳句という言い方が一般化するのは明治期に正岡子規が文芸改革を提唱してからのことで、それ以前は俳諧と呼ばれていた。
芭蕉はその後、江戸に出て武家から俳諧師となり、そして37歳で江戸の街中を離れて深川の草庵に入る。これが、芭蕉庵である。
以後、「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」「更科紀行」「奥の細道」と旅を重ねながら、人生の真実と自らの美学を追究、詩境を深めた。それは「不易流行(ふえきりゅうこう)」の思想であり、「軽み」という美学を実体化する闘いであった。
時は移り、5代将軍綱吉の世。元禄7(1694)年、芭蕉は最後の上方(かみがた)への旅に出て、「秋深き隣は何をする人ぞ」などの句で「軽み」の奥義(おうぎ)に至る。そしてついに、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る」の句を辞世として、大阪で51年の生涯を終えたのである。折しも初冬、芭蕉が追究した「わび」「さび」「しおり」「細み」といった詩境に通じる時雨(しぐれ)の時季。そして、芭蕉自身も時雨の風情を生涯愛したことをもって、芭蕉忌は「時雨忌」とも称される。
また俳句の世界で「翁(おきな)」といえば芭蕉のこと。現代では行年51の男を翁とはいわないが、俳人たちは敬意をこめてそう呼ぶ。したがって、「翁忌」も芭蕉忌の別称になっている。