松陰忌は、明治維新のさきがけとなった吉田松陰の命日で、陰暦10月27日である。吉田松陰は長州藩(山口県)の武士、兵学師範であり、その私塾「松下村塾」を中心に、多くの俊秀を育てたことで知られる。
弟子たちの名前を挙げてみれば、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、幕末から明治にかけての日本史のヒーローばかり。先駆者としての、その影響力の大きさ、精神的なリーダーぶりということでは、坂本龍馬などを率いた土佐勤王党の盟主、武市半平太と、双璧(そうへき)といえるのではないだろうか。そして、松陰、半平太、ともに志半ばで獄につながれ、悲劇的な刑死となるなど、相似通った運命をたどっている。
松陰は、思想家としては「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」派であり、明治維新につながる精神的、理論的背景を構築した人物とされている。師である佐久間象山からも「天下、国の政治を行うものは寅次郎(松陰)である」と評価されている。ただ、松陰は単なる思想家、理論家ではなかった。本人自らも、行動する「志士」であった。
行動する人、吉田松陰として最も知られているエピソードが安政元(1854)年、下田に来航したペリー艦隊のポーハタン号に乗船直訴した事件。鎖国という、当時の国禁を犯す密航の企てである。夜陰に紛れ、弟子と2人で小船でいきなりアメリカの軍艦に乗りつけるという行動は、かなりの「直情径行」ぶりともいえる。しかも、失敗した後、自首して出るという潔さも、松陰の魅力なのだろう。
その後、大老・井伊直弼の「安政の大獄」で斬首(ざんしゅ)となった。大方は「遠島」程度の刑だとしていたのを、井伊本人が「斬首」と判決したという。それほど松陰の影響力は時の権力者に恐れられていたわけだ。
松陰刑死が10月27日。その数カ月後、桜田門外の変で、井伊が尊皇攘夷派の水戸浪士一党に斬られるのだから、まさに「激動の幕末」である。
生誕の地、山口県の萩と、改葬の地、東京都世田谷区の若林に「松陰神社」がある。