春の花見に、秋の紅葉(もみじ)狩り。これは、日本人の二大行楽である。この時季くらいは誰もが、四季のある国に生まれた幸福を感じてしまう。ともに「桜前線」、「紅葉(こうよう)前線」といって、前者はおおむね南から、後者は北から日本列島を進んでいく。
さて問題は、なぜ「紅葉」と書いて「もみじ」と読むのか、ということ。
この点で一つのヒントになるのが「紅花(べにばな)」。この古代からある染料を「揉(も)む」ことによって、無地の絹布を紅に染めるところから、「紅」「紅絹」を「もみ」と読む習わしがある。ここから、木の葉が紅くなることの「紅葉(もみ)ず」という動詞が生まれ、転じて紅葉樹木の代表として「かえで」が「もみじ」と呼ばれるようになったのではないか、といわれている。
園芸的には、てのひら状の葉のもの、つまり「いろはもみじ」や「おおもみじ」などを「もみじ」といい、そのほかは「かえで」と呼ぶ習慣があるようだ。
そして、次の問題はその紅葉狩りの「狩り」。なぜ紅く色づいた葉、紅葉を愛(め)でる行為を「紅葉狩り」というのか。
元来「狩り」は鳥獣を捕獲する意味であるが、それが次第に果物採りや草花観賞にまで意味が広がった。優雅なことをするのに逆に荒々しい言葉を使う、一種の貴族的な言葉遊びなのだろう。夏季の美しい言葉としての「蛍(ほたる)狩り」も同様である。
もちろん春の花見のこととして「桜狩り」という言葉もあるが、紅葉狩りのほうが、はるかに一般的である。それは、能の名曲「紅葉狩」や、「美しい更科姫、実は鬼女」という同名の歌舞伎の人気演目の影響によるもの、つまり大衆的教養の高さにかかわるものだといっても過言ではない。
ほかにも、形や色合いを表しながら、紅葉=もみじは様々な表現に使われている。「紅葉のような手」は幼児の可愛い手。「紅葉おろし」は大根おろしに唐辛子。「紅葉鮒」は琵琶湖の名産。「紅葉饅頭(まんじゅう)」は、ご存じ、安芸の宮島土産。紅葉=鹿肉というのは、花札からの連想である。