毎年10月28日、東京・目黒の目黒不動尊瀧泉寺では「甘藷まつり」が催される。この寺に墓所のある青木昆陽にちなむ祭事で、甘藷はご存じのように、サツマイモの漢名である。
青木昆陽(こんよう)は江戸時代中期、享保(きょうほう。1716~36年)の頃の蘭学者。享保といえば、江戸幕府三大改革の一つ「享保の改革」で知られる8代将軍吉宗の時代だが、この改革派将軍は、飢饉(ききん)救済にも名案を求めていた。そこに、あの名奉行、大岡越前守を通じて青木昆陽の飢饉対策「甘藷栽培」が提案されたのである。この策は採用されたものの、中南米原産といわれるそのイモは寒冷に弱く、関東での栽培には苦心惨憺(さんたん)。やっと江戸を中心に千葉、埼玉方面で定着に成功し、多くの窮民が飢餓で死なずに済むことになった。そうして昆陽は多くの人々に「甘藷先生」として尊敬されるようになったのである。
このとき昆陽が取り寄せた種イモの産地が薩摩(さつま)。そこからこのイモはサツマイモと呼ばれるようになった。ただ、物語はこれで終わらない。薩摩では、このイモは唐(カラ)イモと呼ばれているのである。つまり中国のイモというわけだ。この唐イモは琉球(沖縄)からもたらされたものなのだが、それを薩摩に定着させた一人である前田利右衛門は「甘藷王」と呼ばれ、唐イモの神様とあがめられているという。
さて、その唐イモだが、琉球ではどう呼ばれていたか。ただのイモ、甘藷である。沖縄にこのイモをもたらしたのが野國總管(のぐにそうかん)。琉球王国の官吏であった彼が、中国の福建省から「甘藷」を持ち帰ったのが1605年のこと。これが、我が国の甘藷、サツマイモのルーツといわれる。もちろんこのイモは多くの琉球の庶民の命を救った。野國總管は今も、地元の人々に「イモ大王」と呼ばれて尊敬を集めている。
「甘藷先生」「甘藷王」「イモ大王」、そうした呼び方の中に、命の恩人への、庶民の感謝の気持ちがあふれている。そして今、目黒の甘藷まつりが終われば、焼き芋の季節が到来する。