実朝忌は、鎌倉幕府三代将軍で歌人としても知られる源実朝(みなもとのさねとも)の忌日で、陰暦1月27日である。
実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男で、母は北条政子。兄の二代将軍源頼家が追放された後、将軍職を継いだ。
もともと二代将軍頼家は、北条氏の強要によって将軍職を下りたもの。幕府の一方の有力武将、比企能員(ひきよしかず)と共に北条氏討滅を企てたが、逆に伊豆修善寺に幽閉され、結局、その地で北条時政に襲われて22歳という若い命を散らした。そのあたりの事情は、岡本綺堂の戯曲で、新歌舞伎の代表作の一つとされる「修善寺物語」に描かれている。
頼家の後継として将軍職に就いたときの実朝は、弱冠12歳。当然のように政権運営の実権は母政子と北条氏が握った。
実朝は武士としても優れていたといわれるが、朝廷と北条氏の間にあって、その力量をストレートに発揮したとは言いがたいようだ。ただ、歌人としては日本文学史上に優れた足跡を残した。家集の「金槐和歌集」もその一つである。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ 実朝
明治期に和歌の革新を唱えた正岡子規は、その主書「歌よみに与ふる書」で、実朝をただ者ではないと評価している。
いわく、和歌は実朝以来、不振である。実朝という人は、30歳前の、これからというところで、あえない最期となったのは非常に残念。あと10年も生きていれば名歌を多く残したであろう。ともかく、実朝は第一流の歌人であることは間違いない……。
源実朝は、1219(建保7)年の正月27日、参詣に訪れた鶴岡八幡宮で、この社の別当(僧職)である公暁(くぎょう)の太刀によって非業の死を遂げた。その公暁は、これも悲運の将軍であった兄頼家の遺児。つまり、実朝は甥に暗殺されたのである。
実朝は親の仇(かたき)、と公暁をそそのかしたのは誰か。北条氏か三浦氏か。謎は深まるばかりだが、暗殺者公暁も間もなく殺害され、実朝に実子はなく、ここに源氏将軍の血脈は絶えた。
実朝の墓は、鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)にある。