日本を代表する伝統文化の一つ「茶道」の大成者として知られる千利休は、生年が大永21(1522)年、没年が天正19(1591)年。その70年の生涯のすべてが、いうところの「戦国時代」および「織豊時代」のなかにある。生年のころは細川、三好、畠山などの諸氏が勢力を張り合った「下克上」の戦国。そして、その戦国時代を治め、天下を統一した豊臣秀吉の命による切腹で生涯を閉じた。時代を画した武将でいえば武田信玄は1歳年上、上杉謙信は8歳下、織田信長は一回り、つまり12歳下、豊臣秀吉は15歳年下である。
こうした戦乱・動乱の時代、現在の大阪府南部・堺は、日本最大の国際貿易港にして有力商人たちの自治による自由都市であった。そして、千利休、幼名与四郎は、この町の豪商の子として生まれた。生家は堺の納屋衆「魚屋(ととや)」。若くして茶の湯を北向道陳(きたむきどうちん)、次いで武野紹鴎(たけのじょうおう)に学び、宗易(そうえき)と名乗った。
世に広く知られている「千利休」の名のうち「千」は、祖父が足利将軍家の同朋で千阿弥といったことから取り、正親町(おおぎまち)天皇に許されて姓としたもの。居士号の「利休」も、同じく正親町天皇より拝受したものとのこと。
利休は、自ら学んだ「茶の湯」を深化させ、「わび」「さび」「茶禅一味」などの独特の美学に基づく「茶道」として体系化、大成させた。その「道」は、いわゆる「三千家」、「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の家系を中心に現在まで伝えられ、さらに国際的にも発展している。
人物としても、当時の大名をしのぐ傑物であったとして伝えられ、ある種、理不尽ともいえる秀吉の切腹命令も悠然と受け入れたという。その命日が旧暦2月の28日。現在では「利休忌」が3月27日、28日に京都の大徳寺で行われる。
その劇的な生涯は多くの小説や映画に描かれているが、大茶人というだけでなく、提唱した美学は日本の文化に大きな影響を与えている。「利休好み」という言葉は、その美学を具体的に示すもので、「利休鼠」「利休箸」の類。ちなみに「利休鼠」は「緑色を帯びた灰色(鼠色)」である。