刃傷(にんじょう)とは、読んで字のごとく、刃物で人を傷つけること。傷害。松の廊下は、その傷害事件の現場である。事件の起きた時間は、元禄14年(1701)旧暦3月14日の午前11時ごろだったといわれている。そして、事件は単独では終わらず、結局は元禄の天下を揺るがす大騒動「赤穂事件」の発端という位置づけになってしまった。
この傷害事件の犯人は、播州(兵庫県)赤穂藩五万石の大名、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)。被害者は吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)。吉良は徳川幕府の高家(こうけ)、つまり朝廷使節の接待や儀式などをつかさどる役職の筆頭。したがって、浅野と吉良のこの事件は、殿様と幕府高級官僚の傷害事件であり、一般の武士同士の喧嘩(けんか)レベルではなかったのである。
しかも、現場が徳川幕府の本拠、いわば幕藩体制のシンボル江戸城の中。「松之大廊下」と呼ばれる本丸御殿に続く場所だというのだからただ事ではない。
「松之大廊下」の名は、廊下に沿った襖(ふすま)に松の絵が描かれていることによる。もちろん本丸御殿仕様なのだから、床は板敷ではなく畳敷。幅4m、全長数十mという江戸城2番目の長さ。文字通りの大廊下である。
さて、なぜ、大名である浅野が江戸城という公式の場で、吉良に切りかかったのか。それも状況は、天皇の使者を迎えるという、徳川幕府にとっては公式行事中でも特級の大事の最中。その上、浅野は接待役を指名された人物、吉良はその指導役という関係だったのだから、「なぜだ」という思いは関係者にも複雑な波紋を呼んだ。
原因については「賄賂(わいろ)トラブル」やお互いの領地の「塩田遺恨」、あるいは「浅野病気発作」など諸説ある。しかし結果は、当時の武家においては「喧嘩両成敗」が基本ルールであったにもかかわらず、浅野は即日切腹、吉良はお咎(とが)めなし。このことが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心とした「赤穂浪士」の復讐譚(ふくしゅうたん)になり、「忠臣蔵」という、日本人の誰もが知っているドラマの誕生につながっていくのである。