日本の歴史上、天才といえる人物は誰か、というときに必ず挙げられるのが空海、弘法大師。日本仏教界のスーパースターにして、庶民からは「お大師さん」と呼ばれて親しまれている、名僧中の名僧である。その空海が高野山金剛峯寺で入定(にゅうじょう)、つまり亡くなったのが平安時代初期の835年3月21日のこと。数え年62歳であった。弘法大師が、この4カ月前に弟子を集めて自らの死期を予言したことは有名なエピソードである。
3月21日には、各地で大師をしのぶ行事がある。高野山金剛峯寺などでは、大師の絵像を祀(まつ)り「正御絵供(しょうみえく)」という法要を行う。東京の西新井大師では、弘法大師忌縁日が大いににぎわう。
四国、讃岐(香川県)の豪族、佐伯氏の御曹司として奈良時代の末期、774年に生まれた空海は、大学(当時の官吏養成機関)に学んだ後、仏門に入る。若き日の四国各地での修行を経て、遣唐使に随行して入唐、当代随一の高僧、恵果(けいか)に師事して密教の奥義を伝授された。そして帰国後、真言宗の開祖となり、東寺、金剛峯寺を中心に教えを広めた。
雨乞いをして竜を呼ぶなど、数々の伝説に包まれた名僧だが、平安期の「三筆」と称えられるほどの能書家としても知られ、「弘法筆を択(えら)ばず」のことわざを残す。
四国八十八カ所巡礼の霊場巡りは、弘法大師空海の修行のあとを訪ねる遍路旅。遍路の菅笠(すげがさ)には「同行二人」と墨書されているが、これは「お大師さんと二人連れ」という意味。その四国霊場二十四番札所、最御崎寺(ほつみさきじ)のある室戸岬の海岸に、大師が修行を重ねたといわれる岩窟「御厨人窟(みくろど)」がある。ここで真言を唱え続けた明け方、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の顕現である明けの明星が青年空海の口に飛び込み、悟りを開いたと伝えられる。また、眼前にあるのは室戸岬の広大な空と海だけ。ここから大師は自らを空海と号するようになったともいわれている。
この「御厨人窟」から聞く室戸岬の波音は、環境省の「日本の音風景百選」に選定されている。それは、1200年前に空海が聞いた海鳴りである。