「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人なり」
これは、日本の文学史上に燦然(さんぜん)と輝く松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭、書き出しの一文である。教科書にもよく紹介されているので、「奥の細道」全文は知らなくても、この冒頭の文章は覚えているという人は多い。
「奥の細道」は、江戸から北関東、東北、越後、北陸を巡り、岐阜の大垣に至る全行程2400kmに及ぶ芭蕉の紀行文。その中に「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」「閑(しずか)さや岩にしみ入(い)る蝉の声」「五月雨を集めて早し最上川」「荒海や佐渡に横たふ天(あま)の河」など、日本人のほとんどが知っている名句がちりばめられている。
国民的文芸ともいわれる俳句の世界で「俳聖」といわれる松尾芭蕉は、元禄2年(1689)の「弥生も末の七日」つまり3月27日の早朝、江戸は深川の芭蕉庵から「奥の細道」の旅に出立した。弟子の曾良(そら)が同行したといわれている。芭蕉、このとき46歳。人生50年の時代においてはすでに晩年。「前途三千里」の行程を思えば、胸ふさがれる思いであるとし、「行春(ゆくはる)や鳥啼(とりなき)魚(うお)の目は泪(なみだ)」、鳥も魚も泣いて別れを惜しんでいる、という一句を旅立の項に残した。
すでに俳人としての名声を得ていた芭蕉は、41歳のときに「これからは旅に命を懸ける」として、あこがれの西行の跡を追う旅を始めた。いわば、家庭も社会的地位も捨てた、究極の自己実現的生き方を選択し、「野ざらし紀行」の旅に出る。そのときの冒頭句が「野ざらしを心に風のしむ身かな」。野垂れ死にの覚悟である。そして4回目の旅「笈(おい)の小文」の冒頭は「旅人とわが名よばれん初時雨(はつしぐれ)」。
芭蕉の旅は「奥の細道」で最後となってしまったが、辞世の句も「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」。享年51。その人生そのものが旅だったのである。