徳川幕府のおひざ元、江戸は、享保のころには、百万の人口を誇る世界最大級の都市だったが、日本建築独特の木造家屋の密集地域でもあり、大火事が頻発していた。「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」などといい、それは京、大阪と違う新興都市の勢いを表してはいる。しかし実際に大都市での火事は大災害となりかねない。放火などもってのほか、というわけで、行政側も「鬼平」、長谷川平蔵でおなじみの「火附盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」という役職を設けたり、法的にも放火は火罪、死罪といった重罪とした。火罪とは、火あぶりの刑である。
天和3年(1683)の3月29日、お七という娘が放火の罪で鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられた。お七は江戸駒込の八百屋の娘で、自宅に火をつけたもの。このとき16歳。火事そのものは小火で終わったようだが、放火は放火。大罪である。16歳の娘がなぜそんな大罪を犯したのか。その背景には、少女ならではの「恋」がある。
その前年の大火事の折、焼け出されたお七一家は駒込円乗寺(諸説あり)前の仮設小屋に避難。ここで美男の寺小姓(諸説あり)を見初(みそ)める。それからが、少女の思慮の浅はかさ。自宅に帰った後も、もう一度火事になれば恋しい寺小姓に会えるのでは、と思い、自宅に火をつけてしまったのである。
この話は井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられ、歌舞伎、舞踊、落語など大衆娯楽のかっこうの題材となった。西鶴の筆によれば、花にたとえれば上野の花の盛り、月にたとえれば隅田川にうつるさやけき影。絶世の美女と書き記している。
「八百屋お七」を歌舞伎などでは「櫓(やぐら)のお七」という。これは振り袖で火の見櫓に登って半鐘を打つ姿からの通称。また、この振り袖のイメージから、お七がらみの火事と明暦の大火「振り袖火事」(明暦3年〔1657〕)が混同されることがあるが、二つはまったく別のことである。
同時代に生きた八百屋の娘としては、徳川5代将軍綱吉の生母となった「お玉」(桂昌院)がいる。こちらは「玉の輿(こし)」の語源説もあるほどの幸運人生だが、それだけに一方の「お七」の哀れな純情が庶民の胸を打つ。