平安時代末期の歌人僧、西行(1118~90年)は「願はくは花の下(もと)にて春死なむ そのきさらぎの望月(もちづき)のころ」と詠(よ)んで、その通りの時期に死に、当時の文化人、貴族の心に衝撃を与えたそうだが、「きさらぎ」は「如月」、望月は「満月」、つまり旧暦の2月の満月は、今でいえば3月下旬のころだろうか。
この「桜」と「死」という感覚は、梶井基次郎の「桜の樹の下には」や、坂口安吾の「桜の森の満開の下」などの名作の系譜ともなっている。桜の花は、咲いて2週間ほどで散ってしまう。その風情が「パッと咲いて、パッと散る」印象につながり、「はかなさ」や「潔さ」といったコンセプトもみちびかれたのだろう。また夜桜も、花の白さが夜の闇の中でかえって妖しく鮮やかで、人の心をひきつけてやまない。
それまでの梅に代わり、桜が日本の春を代表する花になったのは平安時代以降のこと。桜の花を愛でる、つまり花見が日本人の中で春のならわしになったのは、平安貴族の観桜の宴に始まる。宮廷の清涼殿などの花見の宴が年中行事化し、夜は篝火(かがりび)による夜桜の宴も行われたという。また、遠出の花見は「桜狩」と呼ばれ、秋の「紅葉狩」と対をなす行楽となった。
続く室町時代、足利3代将軍義満の「花の御所」が知られているように、上流階級の人々は自邸に桜を育て、また大きな社寺も多く桜を植えた。このころには京都、洛中洛外の桜の名所が周知されるようになったのである。そして、安土桃山文化の華やかさの中、慶長3年(1598)、京都の醍醐寺で開かれた豊臣秀吉の「醍醐の花見」で豪華、豪勢な花見の宴は頂点を迎える。
江戸時代に入り、花見は一般庶民にも春のならわしとして広まった。桜の下、酒食の宴に歌や踊りも加え、人々は春の一日を過ごすようになったのである。ちなみに、墨堤の桜は徳川吉宗の政策。地方では、山遊びとしての花見が、春の農事を始める前の恒例の行事となった。
こうして、平安時代以降、花といえば桜、という共通認識が形成されていった。たとえば俳句の春の季語で「花」といえば桜のこと。「花の雲 鐘は上野か浅草か」。「花の雲」は、満開の桜の咲き誇る様子がまるで雲のように見えるということ。江戸の花見頃を詠んだ芭蕉前期の傑作。
蕪村は逆に「雲を呑んで花を吐くなるよしの山」と千本桜の吉野を詠んだ。