東京の代表的な祭りは夏祭りが多いが、浅草神社の三社祭(さんじゃまつり)もその一つで、毎年5月の第3金曜日から土曜日、日曜日にかけて行われる。この3日間での見物人が200万人ともいわれ、その人出の多さでも有名である。約100基の御輿(みこし)が各町の氏子(うじこ)によって威勢よく担がれ、伝統の町並みの中を練っていく光景は、江戸時代の下町っ子の心意気を彷彿(ほうふつ)とさせる。
ただ、この浅草神社の例大祭が、なぜ「三社祭」と呼ばれるのか。これについては「浅草の観音さま」浅草寺(せんそうじ)と切り離して考えることはできない。推古天皇の36年(628)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)という漁師の兄弟が、隅田川での網漁で1体の小さな像を引き上げた。地元の文化人である土師真中知(はじのまつち)に、その像が聖観音菩薩の尊像であると教えられた漁師の兄弟は、信心を始めて大漁を得ることができた。そして、土師真中知は僧となり、自宅を寺として観音像の供養護持をし、浅草に信仰を広めた。このことが浅草寺の起源とされている。
この土師氏の子孫が、土師真中知と檜前兄弟の3人を「三社権現(さんじゃごんげん)」として祀(まつ)り、三社権現社としたのが、浅草神社の始まりという。「権現」とは、仏が人々を救うために日本の神として現れた権(かり)の姿。したがって、神社がお寺の中にあっても不思議はない。というよりも、江戸時代まではお寺の中に神社があり、神社の中にお寺があるという信仰の形は当たり前だった。そのように三社権現社も浅草寺と一体であり、「三社祭」も浅草寺の祭りとして行われていた。
それが、神道の国教化を目指した明治政府の、いわゆる「神仏分離」の政策(明治元年〔1868〕)で、寺にある神社は分離されることになった。この流れの中で、三社権現社は浅草寺から分離されて三社明神社となり、明治6年(1873)に現在の浅草神社の名称となったのである。
いずれにせよ、浅草繁栄のルーツである3人が「三社さま」として長く町の人々に親しまれてきた。このことが三社祭隆盛の最大の理由なのだろう。