現代の戦争は、互いに敵の姿を見ないで、レーダーと遠隔操作のミサイルで攻撃をしあうので、まるでゲーム感覚の戦いだといわれることがある。
しかし、今から100年ちょっと前の、明治38年(1905)5月27~28日、長崎県対馬沖の日本海で日本とロシアの艦隊が互いを視認しあい、ともに射程に入る中で、相手を沈めるべく艦砲を撃ち合った。日露戦争の行方を左右した「日本海海戦」である。
東洋の果ての島国日本は、1868年に明治と改元して、鎖国の夢から覚めた新興国。一方、ロシアは東欧の巨大国でありながら、農奴制をベースにしたツァーリズム、ロシア独特の帝政が行き詰まりを示していたころのこと。
明治の新政府は、明治10年(1877)の西郷隆盛との西南戦争で最後の内戦を乗り切り、サムライの世の中に区切りを付けた。そして、憲法を制定し、殖産興業と国民皆兵(徴兵制)による「富国強兵」の号令の下、近代国家建設にまい進していた。一方、明治32年(1899)には高等女学校令公布、同34年の日本女子大学校開校、35年には小学校の就学率が初めて9割を超えるなど、女性や子どもの教育にも力を注いだ。
その時代を活写した国民的ベストセラー、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、四国松山の幼なじみ、正岡子規と秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟の青春、成長を明治国家のそれになぞらえた。この小説は明治百年の昭和43年(1968)に産経新聞で連載開始。今からちょうど40年前のことである。文学者となった子規や、軍人となった秋山兄弟、そして明治の人々が見た「坂の上の雲」とは何だったのだろうか。
国際的にいえば明治27(1894)~28年の清との日清戦争に勝利していたとはいえ、その10年後、満州や朝鮮半島の利権を巡って、日本がロシアと戦端を開くのは無謀との見方が強かった。国力差からして当然であった。しかし、秋山兄弟の活躍などで、日本海海戦の勝利を契機に日露戦争は日本優勢の中で停戦、講和。こうして日本海海戦は、明治の近代化路線の一つの転換点となったのである。