「八月に六日九日十五日」。この句を詠(よ)んだ小野巨子は、日本が第二次世界大戦の敗戦国となった昭和20年(1945)の夏は8歳の少年であった。
冒頭の俳句に込められた思いは、ほとんど日本国民共通のものといえるが、とりわけこの時代を少年として生きた人びとには、鮮烈な印象を伴う暦日なのだろう。つまり、8月の6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆忌であり、15日は、それらの惨禍の先にあった終戦記念日である。
原爆が実戦で使われたのは、アメリカ軍による1945年8月6日の広島と、9日の長崎の2度だけ。ただ、この2発で、核兵器は、その破滅的脅威を世界に示すことになった。
アメリカが原子爆弾の開発を始めたのは42年の8月。そして3年後の45年7月16日に実験成功。それから1カ月もたたない8月6日、原子爆弾を搭載したアメリカ空軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、太平洋上のテニアン島基地を発進した。攻撃目標「広島」、予備第2目標「小倉」、予備第3目標「長崎」。
8月6日午前8時15分。広島の天候は晴れ。そうして人類初の原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、一瞬のうちに広島市街を壊滅させた。死者は8月6日のこの瞬間から12月末までで約14万人とされる。
続いて8月9日、テニアン島を2発目の原子爆弾を搭載したB29爆撃機「ボックス・カー」が出撃した。攻撃目標は「小倉」。予備目標が「長崎」。小倉上空に集結した攻撃隊は、何度か投下を試みるが失敗。時間経過とともに天候も悪化し、目標を長崎に変更した。
8月9日の午前11時2分。プルトニウム使用の原子爆弾が長崎市の浦上地区に投下された。これは広島に投下されたウラン使用の原爆の1.5倍の威力があった。そして、閃光とともに市街は廃墟と化し、7万4000人の命が奪われた。また、7万5000人の負傷者をはじめ、多くの市民が甚大な後遺症に苦しめられることになった。
6日と9日、毎年、広島と長崎で平和祈念式典が行われる。そして、原爆投下から半世紀が過ぎた96年、広島の原爆ドームが、ユネスコの「負の世界遺産」に登録された。