それまで長く日本人の時間感覚、季節感のベースとなってきた太陰暦を廃止し、欧米諸国と同じ「太陽暦」を採用することについての詔書が、明治5年(1872)の11月9日に発せられた。詔書とは、臨時の重要事項について発せられる天皇の文書のこと。それは明治国家における元首の公式認可であり、その趣旨と重要性を一般国民に知らせるための文書という意味もあった。
確かに、生活全般を支配する暦法の変更、いわゆる改暦は大変なことである。とりわけ近代以前では、暦によって農事が左右されたわけで、まさに暦は死活問題であった。したがって、古代には暦をつかさどることは、最高権力者の管轄事項だったのである。
いわゆる旧暦といわれる、月の満ち欠けを基本とする太陰暦は、時代を経るなかで改良工夫が加えられ、江戸後期から、この明治5年の時点まで使われた天保暦は、太陽暦の特長も取り入れた太陰太陽暦であり、かなりのすぐれものであった。しかし、その天保暦でも、欧米諸国で採用されていたグレゴリオ暦、いわゆる太陽暦とは1カ月以上のズレがあり、国際的には好ましくはなかった。改暦は、近代国家建設を目指す明治政府にとって、早急に解決しなければならない課題であった。それが、文明開化であったのである。
明治5年の11月9日、改暦の詔書が出されたのだが、その内容は、翌月の12月3日を明治6年の1月1日、つまり元日とするというもの。証書が出されて1カ月もしないうちに大晦日(みそか)だ、お正月だというのだから、人々の大混乱が目に浮かぶようだ。いまでも、この旧暦(陰暦)、新暦(陽暦)問題は、日本人の生活のなかに微妙な違和感を残している。
改暦は確かに文明開化ではあったが、裏事情としては、太陰暦の閏(うるう)年問題があったようだ。というのも、大陰暦は1カ月を約29.5日とするため、実際の1年と時間のズレが生じ、それを調整するために何年かに一度、閏月を入れて1年を13カ月とする閏年を設けていた。そして明治6年が、その閏年であった。発足間もない明治政府は多く抱える役人の給料の支払いに苦労しており、1カ月分でも出費をおさえるため改暦を急いだ、ともいわれている。