11月19日は、江戸時代後期の俳人、小林一茶(いっさ)が亡くなった日。「一茶忌」といわれ、俳句歳時記では冬の季語となっている。
世界で最も短い詩型とされる「俳句」は、16世紀前半の山崎宗鑑や荒木田守武の俳諧連歌をその祖とすれば、500年近い歴史を持つ伝統文芸である。そのなかで、知っている俳人の名を挙げよ、と問われれば、まず、江戸時代前期の松尾芭蕉、中期の与謝蕪村、そして後期の小林一茶がベストスリーに入るだろう。ただ、俳句だけでなく日本の文学史に燦然(さんぜん)と輝くこの三人、それぞれに印象が異なっている。
芭蕉は、その句「古池や蛙飛びこむみずの音」「閑(しずか)さや岩にしみ入るせみの声」のように、宇宙的、哲学的であり、のちに「俳聖」とまであがめられた存在。蕪村は芭蕉を尊敬しつつも一方で文人画家であり、その句「牡丹散て打ちかさなりぬ二三片」「月天心貧しき町を通りけり」のように、やはり絵画的。詩画の巨匠としてたたえられる存在。
この先人二人に比べ、一茶は、その句「雪とけてむら一ぱいの子ども哉(かな)」「我と来て遊べや親のない雀」のように、なんとも身近で親しみやすい、つまり、尊敬称賛よりも、「愛される」存在。それらの句は、一茶の生涯の陰影のなかから生まれたものである。
小林一茶は、宝暦13年(1763)に信州の柏原宿、現在の長野県北部の信濃町の農家に誕生。3歳で生母と死別、継母と折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出された。20歳ごろから俳句の道を目指し、溝口素丸などに学びながら、俳号を一茶とした。
江戸の大商人俳人であった夏目成美の句会に入り、貧乏に苦しみながら、次第に声価を高めていく。また、39歳で信州の生家に帰り、病気の父を看病。父の没後は、継母、弟と家屋や田畑の相続争いを十数年にわたって続ける。
そして、50歳で帰郷した一茶はようやく継母、弟と和解。52歳で28歳のきくと結婚し、三男一女をもうけるが、次々に夭逝(ようせい)。妻も37歳で他界した。
その後再婚、離婚、再々婚。最晩年は大火で家を焼失、残った土蔵暮らしとなり、その土蔵で65歳の生涯を終えた。思えば、苦労不遇の生涯で、「露の世は露の世ながらさりながら」の一句が胸をつく。