11月26日、京都市上京区の北野天満宮で「御茶壺奉献祭(おちゃつぼほうけんさい)」が行われる。この日に奉納された新茶が、12月1日に同宮で催される「献茶式」の抹茶に使用される。
茶道の世界では、11月の「一の亥の日」を「開炉」「炉開き」といい、夏用の風炉(ふろ)に換えて茶室の炉を開く。そして、春につんで茶壺に蓄えておいた新茶を、茶壺の封を切って使う。これを「口切り」という。こうした、新茶を使い始める時期が、茶の湯の世界の正月にあたる。したがって、茶室の畳も障子も新しく張り換え、庭の竹垣や樋(とい)も青竹に換わる。北野天満宮での「御茶壺奉献祭」と「献茶式」も、この「開炉」「口切り」の時期における茶道の世界の大切な行事とされている。
ところで、なぜ北野天満宮なのかといえば、これは16世紀後半の「天下人」豊臣秀吉が、その全盛期に行った「北野大茶湯」にちなむ行事だからである。
秀吉は、その威勢を天下に知らしめるために、天正15年(1587)10月1日に、北野天満宮境内で、諸大名、公卿、有力商人などを集めて千人規模の大茶会を催した。「黄金の茶室」を持ち込んだそれは、聚楽第(じゅらくだい)造営とともに、秀吉にとっては「どうじゃ」とばかりの、得意満面の大イベントであったにちがいない。ちなみに、現在の北野天満宮の社殿は、秀吉の遺児、秀頼が寄進したものである。
11月26日。「御茶壺奉献祭」のその日、宇治をはじめとする京都各地の茶所から「御茶壺道中」で集められた新茶が、北野天満宮に運ばれる。笙や笛の典雅な調べが流れるなか、白装束の若者たちが、茶壺を納めた唐櫃(からびつ)を担いで一の鳥居をくぐる。そして、しずしずと参道を進み、古式ゆかしく神前に供えるのである。
続く12月1日。この日、北野天満宮の「献茶祭」として茶道家元がその道の隆盛を祈願。「御茶壺奉献祭」で納められた新茶の口切りをした大茶会となる。この家元の役目については、京都の藪内、表千家、裏千家、武者小路千家の四家元と、堀内、久田の二宗匠が輪番で務めることになっている。