スタートしてまだ十数年の明治政府は、欧米諸国との不平等条約の改正や治外法権の撤廃を重要課題としていた。近代国家としての体裁を整えるためには、当然の取り組みである。
その努力の第一歩として、欧米人に残る「日本は未開の国」というイメージを払拭(ふっしょく)しなければならないが、さて、どうすればいいのか。時の外務卿(外務大臣)井上馨は、形から入る欧化政策を採用した。ことわざでいえば「馬子にも衣装」なのだが、その最もわかりやすい現象が、1883年(明治16)の11月28日に開館式が行われた「鹿鳴館」である。
鹿鳴館は明治の文明開化、欧化主義のシンボルともいえる建造物で、イギリス人建築家コンドルの設計。1881年(明治14)に着工したこのルネサンス様式、レンガ造り2階建ての館は、2年余りの工事期間で、現在の日比谷、帝国ホテルの隣に華麗な姿を現した。1階が大食堂、談話室、図書室など、そして2階の3室が舞踏室で、すべてつなげると100坪(約330m2)というボールルームとなった。
この館の基本的な使命、目的は、外国人賓客の接待である。そして、その接待の方法が、舞踏会、園遊会、バザーなど、当時の日本人にとっては非常にもの珍しいものであった。
なかでも、舞踏会は鹿鳴館の代名詞といわれるほどで、毎夜のように催されたその宴に、内外の政府高官、外交官、貴族、その夫人や令嬢が集い、踊り、華やかな社交の世界を繰り広げた。アメリカ留学から帰り、陸軍卿大山巌と恋愛結婚した大山捨松などは、そこで最も輝いた女性である。
男性はフロックコート、女性はスカートの腰の部分を大きく膨らませたバッスルドレス。ちなみに、階段の「踊り場」という言葉は、この鹿鳴館に集う女性が階段の途中でドレスを翻らせて方向転換するとき、踊るように見えたことに発するという。また、鹿鳴館の夜会には、東京電灯(日本初の電力会社)から日本初の「電力」が送られたとのこと。
しかし、生活、風俗、習慣の欧化を進めた井上馨たちの政策は、やはりその皮相さが批判を招き、井上の外務卿辞職とともに「鹿鳴館時代」はわずか4年足らずで幕を閉じる。その後、鹿鳴館は「華族会館」となるが、1941年(昭和16)に取り壊された。そして、その年の12月8日、日本はアメリカ、イギリスなどとの戦争に突入する。