12月の15、16日の両日、東京都の無形民俗文化財に指定されている「世田谷ボロ市」が開催される。場所は東急世田谷線世田谷駅と上町駅の間、通称「ボロ市通り」。通りには世田谷代官屋敷跡もあり、そこは世田谷の歴史を語るときに欠かせない地域となっている。
「世田谷ボロ市」の発祥は、天正6年(1578)に、小田原城主北条氏政配下の吉良氏が治めていたこの地で「楽市」が開かれたこと。つまり、「世田谷ボロ市」は、430年という年月を経た、堂々たる伝統行事なのである。
天正6年といえば、織田信長が天下統一にひた走っているころ。下克上(げこくじょう)、ルールなしの無法の戦国時代も後半に入り、信長のライバルになる全国各地の有力武将も何人かに絞られていた。
九州の島津、中国の毛利、四国の長宗我部、越後の上杉、そして関東の北条。なかでも、小田原を根拠地とした北条氏は、鎌倉幕府を仕切った北条氏と区別するため後北条氏といわれる、典型的な下克上の戦国大名。北条早雲に始まり、氏政の父・氏康のころに武田、上杉などと競いながら関東の最大勢力となった。そのころ、世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な宿場として大いににぎわったのである。
その世田谷宿で年末に開かれた、年迎えの「年の市」。それも自由な商いを領主が保障した楽市。年の市としての正月用品のほか、古着やぼろぎれも売られた。そのぼろぎれは、わらじの補強材にも使われたが、そうしたわらじ作りは世田谷のお百姓さんたちの冬の重要なサイドビジネスだったのである。
世田谷のわらじは足のなじみもよく、長持ちする。そういう評判のなか、わらじは大いに売れ、それに伴ってぼろぎれの商いも大きくなっていった。これが、この市が「ボロ市」といわれるようになった由縁(ゆえん)。
天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死し、後継者となった豊臣秀吉が天正18年(1590)の小田原攻めで北条氏を滅ぼす。その影響で世田谷ボロ市は一時さびれたが、その後にぎわいを取り戻した。そして明治の新暦採用以降は1月15、16日にも開かれるようになり、現在も約750軒の出店と1日20万人の人出という庶民の一大イベントとなっている。