明治10年(1877)の1月から9月にかけて、西郷隆盛を中心とした大規模な士族の反乱が起こった。「西南戦争」である。明治9年(1876)の廃刀令公布をきっかけとして、その年の秋に熊本の「神風連の乱」や福岡県の「秋月の乱」、山口県の「萩の乱」などの「士族の反乱」が続発したが、それらはすぐさま鎮圧平定された。しかし、その後に起きたこの西郷の戦いは、影響を日本の西南部つまり九州一帯に及ぼし、それゆえに「乱」ではなく「戦争」と位置づけられている。
明治維新の大立者である西郷隆盛は、まだ基盤が脆弱(ぜいじゃく)であった明治新政府のなかで、「征韓論」を主張して大久保利通らと対立。参議・陸軍大将を辞して下野し、郷里の鹿児島に帰ることとなった。明治6年(1873)の「征韓論政変」と呼ばれる政変である。こうして、明治新政府は分裂した。
鹿児島に帰郷した西郷は「私学校」を開設し、子弟の養成を始めた。このことを背景に、当時の鹿児島県はあたかも独立国の様相を示した。県令(知事)の大山綱良からして西郷に傾倒していたのだから、政府の指示が励行されるわけがなく、逆に反政府感情をつのらせていった。
政府の近代化政策、とりわけ士族解体策に強く反発した鹿児島士族は、政府との対立を深め、これを警戒した政府は鹿児島火薬局と海軍造船所の移転を企図。こうした動きや、警視庁警部の私学校探索に対して私学校生徒が憤激、明治10年1月30日に火薬局と造船所を襲撃し占拠したのである。
ことここに至り、ついに西郷も挙兵を決意。私学校生徒に擁立される形で軍を進め、約1万3000の西郷軍は各地の不平士族の加勢も得て、2月に熊本鎮台(熊本城)を攻撃した。政府側は、徴兵制によって編成した5万8000の「国軍」をもって反撃、「田原坂の激戦」など経て西郷軍の制圧に成功。9月24日、鹿児島まで引いた西郷軍の将士は城山で戦死、西郷は自刃した。
政治、社会的流れからいえば、この「西南戦争」における西郷軍の敗戦によって反政府運動の武力闘争は終結し、自由民権運動へと軸足を移していく。