能(能楽)といえば、代表的な日本の伝統芸能の一つであり、現在はその伝統を伝えるシテ方五流派、観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)、金春(こんぱる)、金剛、喜多の名がよく知られている。しかし、この五流派とは別系統の能もある。それが霊峰月山の麓(ふもと)に伝わる「黒川能」。山形県鶴岡市黒川(旧櫛引町)の春日神社を中心とする神事能である。そして、最大の祭りである2月1日、2日の王祇祭(おうぎさい)で奉納される演能が、もっとも重要かつ盛大な黒川能となる。
能はもともと平安時代以降の猿楽(申楽 さるがく)が、鎌倉時代に歌舞中心の能と「笑い」をテーマとするせりふ劇の狂言に分かれた歴史をもつ。そして現在は、その能と狂言を総称して「能」ということもある。
黒川能も、やはり室町時代、500年以上も前に、この地に導入されたようである。演能グループは上座、下座の二つに分かれているが、それは基本的に土地の氏神春日神社の氏子の人々であり、逆にいえば氏子は黒川能の能役者としての責務を負っている。現在、子どもから長老まで、約160人の氏子がその人たちで、代々世襲によって受け継がれてきた。そして、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されたのである。
演目は、能の五流派で現在行われている曲の2倍を越えるといわれる540番。そのなかには、五流派では絶えた曲もある。また、五流派では行われていない演技の形も伝わっている。能面が230点、能装束は400点。こうした民俗芸能としては有数の規模を誇っている。
黒川の上座、下座の人々は、互いに競い合い、支えあって、この独特な芸能を伝えてきた。演能は、王祇祭のほかにも1年を通じて行われる。黒川の人々にとって演能のスケジュールこそが、1年の暦。したがって、2月1日の王祇祭は、黒川の人々にとっての正月であり、門松も1月からこの日までずっと飾られたままになっているという。
まさに、農民の信心と生活のなかに生きる能。純粋芸能でも、観光イベントでもないからこそ、生き生きと続いてきたのだろう。
春日神社のそばにある「黒川能の里 王祇会館」で、黒川能の学習ができるようになっている。