昭和を代表する俳人、富安風生(とみやすふうせい)に「街の雨鶯餅がもう出たか」という一句があるが、風生は和菓子屋の店先で鶯餅(うぐいすもち)を見て、街の雨にも真冬のそれとは違うものを感じたのだろう。鶯という鳥そのものも「春鳥」「春告鳥」「花見鳥」などといわれるが、そのように、鶯餅も春の到来を思わせてくれる、代表的な「季節の和菓子」である。
風生の句ではないが、東京の街の「鶯餅」といえば、麻布の「青埜(あおの)総本舗」のものが有名で、こちらは俳聖・松尾芭蕉の「鶯をたづねたづねて阿左布まで」にちなむ菓子だとのこと。青埜(野)は、元禄期から知られた神田の水飴問屋「青野屋」がルーツで、現在の店につながる創業は幕末の安政3年(1856)。ペリー来航の黒船騒動から3年、井伊大老の「安政の大獄」が始まろうかという、今からおよそ150年前のことである。
関西に目を向ければ、奈良の大和郡山の老舗「本家菊屋」に「御城之口餅(おしろのくちもち)」がある。菊屋の創業は、400年以上も昔の16世紀後半、戦国時代後期の天正年間。豊臣秀吉の弟で大和中納言といわれた豊臣秀長が大和郡山百万石の城主時代、兄秀吉を迎えた大茶会を催し、その際に、何か珍しい菓子を作れと菊屋初代の治兵衛に命じた。そして、菊屋主人が丹精を込めて作り上げた「餅菓子」は太閤秀吉に大いにほめられ、「鶯餅と名づけよ」という言葉もいただいたという。
こうして大和郡山名物「鶯餅」が誕生したのだが、店が郡山城の大手門のそばにあったところから次第にそれは「城之口餅」と呼ばれるようになり、いまではその呼称が定着してしまった。とはいえ、粒餡(あん)の入った一口サイズの餅に、青大豆のきな粉(いわゆる、うぐいす粉)をまぶすという菊屋の工夫と、それに対する秀吉の「鶯餅」という命名が、この「季節の名菓」のルーツになったという説があり、その話は日本人が和菓子の季節感を愛する限り、語り継がれていくだろう。
このように、古くから親しまれてきた菓子だけに、もちろん、東京や奈良だけでなく、和菓子どころの京都や歴史のある城下町の老舗などで、地域伝統の鶯餅が作られてきた。ただ、あの「ホーホケキョ」と鳴く実際の鶯は、鶯餅の緑色、つまりうぐいす色よりは、もう少し茶色なのだけれど。