毎年3月20日前後の日曜日に、世界遺産で日本三景の一つ、広島県廿日市市の宮島で、「宮島清盛まつり」が催される。3月20日は平清盛の命日であり、祭りは宮島・厳島(いつくしま)神社の隆盛に大きく寄与したこの平安時代後期の「天下人」にちなむもの。「平氏にあらずば人にあらず」と豪語した平家一門の厳島神社参詣をモチーフにした平安絵巻行列を中心に、広島湾に春を呼ぶ祭りとして親しまれている。
宮島は厳島の別称で、標高530mの弥山(みせん)を中心とした面積約30km2の小島。名物「もみじ饅頭」で知られる紅葉谷を含む原生林に覆われた島で、その島全体が、古くから信仰の対象とされてきた。
この島の北岸、広島市側に厳島神社が創建されたのは6世紀末の推古元年(593)。9世紀初頭の大同元年(806)には、唐から帰国し、京に帰る途中の空海、のちの弘法大師が宮島に霊気を感じ、ここを霊場とした。「弥山霊火堂」には、空海が焚(た)いた火が今も「消えずの火」として燃え続けている。
12世紀半ば、武士の一方のリーダーとして台頭した平清盛は、この地方の長官である「安芸守」に就任。そして、さる老僧から「厳島神社を造営すれば、究極の栄達がかなう」との予言を得、厳島神社に対する信仰を深めた。保元・平治の乱を経て源氏を圧倒した清盛は、娘の徳子を高倉天皇に入内させ、安徳天皇の祖父となる。そうした平家一門の栄華のなかで、清盛は厳島神社を寝殿造りを模して造営、舞楽を大阪四天王寺から移し、「海に浮かぶ西方浄土」をこの世に再現したのである。
このとき、平家一門による法華経の写経が、清盛の願文とともに奉納されているが、これがいわゆる「平家納経」で、国宝中の国宝といわれるもの。清盛はまた、現在の神戸の港を拠点として、宋(当時の中国)との貿易を進め巨万の財を築いたのだが、その貿易海路である瀬戸内海の守護も厳島神社に願ったのだろう。
京の都の文化を宮島に移そうとした清盛は、平家一門のみならず、その影響力のもと、後白河法皇や高倉上皇、中宮徳子といった皇族貴族の厳島神社参詣を実現した。「宮島清盛まつり」は、そうした清盛をしのび、平安時代装束による参詣行列を再現するものである。