毎年3月27日、伊豆・下田の宝福寺で「唐人お吉供養祭」が行われる。
幕末のヒーローといえば、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、近藤勇……と数多いが、さてヒロインとなるとどうか。突如表舞台に躍り出た感のある篤姫は別にして、長く人々に知られてきた幕末の女性といえば、「坂本龍馬の妻お龍」と「唐人お吉」が双璧ではないだろうか。なかでも、唐人お吉は幕末外交史を彩る悲劇のヒロインとして、小説や舞台、歌のテーマとなり、よく知られた名前となった。
嘉永6年(1853)、ペリー提督率いるアメリカ艦隊、いわゆる「黒船」の来航により「鎖国太平の夢」を破られた江戸幕府は外交対策に大わらわ。伊豆半島先端の港町、下田の玉泉寺にアメリカ領事館が開設されて、タウンゼント・ハリスが初代の駐日総領事として着任する。安政3年(1856)のことである。
宝福寺の伝によれば、そのころ、下田の売れっ子芸者お吉は、船大工、鶴松と将来を誓う仲になっていたという。そして、翌年の安政4年、お吉の運命は暗転する。日米修好通商条約の締結に向けて、下田の領事館を根拠地にして幕府との交渉に精力を傾けていたハリスは体調を崩す。そこで通訳のヒュースケンは下田の役人に「看護人」を要請したのである。
お吉についての紹介文の多くに「ハリスの妾(めかけ)として差し出された」というニュアンスがあるが、ヒュースケンのいう「看護人」の内容が当時の日本人に通じず、役人が勝手に「配慮」したとの解釈がある。いずれにせよ、鶴松との仲を引き裂かれた17歳のお吉はハリスの元に赴くが、数日で「お役御免」となった。しかし、当時の外国人への偏見のなか、「唐人(異国人)お吉」と呼ばれ、以後、鶴松と暮らしたり、芸者に戻ったりするが、最後は不遇の身となって、明治24年(1891)の3月27日、下田の門栗ヶ淵に入水し果てた。それを哀れみ葬った宝福寺で、その命日に供養祭が行われている。
供養祭には下田の芸者衆が参加、お吉を演じたことのある女優たちの供花も華やぎを添える。因縁話めくが、平成4年(1992)、同じ伊豆の伊東で「唐人お吉物語」を公演中の文学座の看板女優、太地喜和子が夜間に車で港に落ちるという事故で水死した。
安政6年(1859)に撮影された19歳のお吉の写真が宝福寺に残る。女優顔負けの美人である。